拙著『暴力随想・暴力小説』のご紹介

右左見堂店主は、文学フリマ(14/11/24)に個人誌で参加しました。

 

 古書肆としての業務とは関係ないのですが。いちおう、「右左見堂出版部の出版物」ということで……(どうせ何やっても一人なんですが)。

 

 僕の「戦争」や「革命」など組織集団による「暴力」への強い興味・拘りは、当店の品揃えにも色濃く反映されております。思えば、僕が生きてきた26年間弱は「暴力」への強い関心を膨らませてゆく過程でもありました。そこで今回、「自分にとって暴力とは」というテーマを一冊にまとめ、自分を見つめ直してみることにしてみました。タイトルはずばり、『暴力随想・暴力小説』でございます。

 構成は、随想と小説の二部構成。随想は「年代ごとに自分がどのような暴力に興味を持ったのか」という個人史であり、そこから抽出されたモチーフをもとに小説を書いています。

 

 下に掲載しているのは随想部分冒頭の見本、「暴力への目覚め」です。ご興味を持たれた方、はぜひ、「書籍販売」タブ>「右左見堂の出版物」からどうぞ。


 そもそも、人はどのようにして暴力への嗜好を養うのか。いかにして、暴力という恐ろしくてリスキーなものを「楽しむ」ことを覚えるのか。換言するなら、「子供にとって初めての、暴力に関する肯定的体験とは何か」ということだ。恐らく、この文明社会において「実地での、物理的な暴力」ということはないだろう。物心つく前後の幼児は、親の手厚い庇護の下にあり、暴力からは周到に遠ざけられている。が、「物語における架空の暴力」はその限りではない。道徳心、そして「正義」の概念を幼児にも解り易く伝えるためには、桃太郎が鬼に対して「正義の暴力」をふるう、という描写は必要不可欠である。恐らく、多くの日本人にとって初めての「肯定的暴力」とは、童話の語り聞かせにおける「鬼退治」ではなかったか。

 しかしやはり、中世を舞台とした童話のフォーマットは紋切型であり、説教臭く、古臭い。『桃太郎』からは「正義の暴力というものがありうる」ということを学ぶが、子供はすぐにそれらに飽きて、勝手に「卒業」してしまう(古今東西の童話にはもっと複雑で繊細な教訓を含むものも多いことは承知しているし、そういう童話にも多く接してきたが、論旨には関わりが無いのでそれは捨て置く)。そして、もうすこうし過激で(しかし飽くまで子供向けである)、新味のある「暴力」を求め始める。電化時代以前なら、子供向けの読み物や漫画雑誌における「冒険活劇」だったであろう。そして、時代が下り、僕らの親くらいの世代以降は――「テレビ」である。かく言う僕にとっての「暴力の原体験」も、テレビのスクリーン上で展開されたものであった。

(ここからは、上に連ねてきたような抽象的な議論ではなく、極めて私的な、僕の個人史的な内容になっていくことを予め断っておく。)

 

 さて、僕らが幼少期、テレビ画面上で熱狂した「暴力」と言えばやはり、「特撮ヒーローもの」である(『アンパンマン』も「正義の暴力」を扱っているものとして無視し難いが、こちらはむしろ絵本的「童話」の延長と考えて除外した)。僕らはスクリーン上で「悪の組織」と死闘を繰り広げるヒーローたちの格好よさに熱狂し、幼稚園の園庭や近所の公園で同世代の子供たちと「ごっこ遊び」をすることでヒーローたちの暴力を「模倣」し「再生産」した。僕にとっての「模倣の暴力」は、「ボールの取り合い」とか「砂場の優先権」を争っての「実利のための暴力」に先んじていたように思う(これについては、やや体が小さく気も弱かった僕には後者の暴力に挑む実力が無かった、という事情も多分に影響しているかもしれない。また、この事実は僕が単に「粗暴」な子供ではなかったことを示している)。とまれ、僕らは「毎週の視聴と毎日の模倣」という反復を通して、どんどん暴力に目覚めていったのである。

 

 さらに微視的な話に移る。ひとくちに「特撮ヒーローもの」と言っても、複数の番組枠があり、さらにその中でも一年単位で話が刷新される。また、毎年主役は交代するものの、番組枠ごとに大まかな「シリーズ」を形成していた(このフォーマットは現在に至るまで維持されているようなので、正確には「形成している」)。僕が特撮ヒーローものに熱狂した一九九二年から一九九四年の三年間(因みにこれは僕が幼稚園に通った期間と全く一致する)、特撮ヒーローものは金曜夜の「スーパー戦隊シリーズ」と日曜朝の「メタルヒーローシリーズ」の二大巨頭体制であった(余談になるが、この三年間、「ウルトラマンシリーズ」も「仮面ライダーシリーズ」も新作が放映されることは無かった)。年ごとのタイトルは下表の通り。


 

1992

1993

1994

スーパー戦隊

シリーズ

恐竜戦隊

ジュウレンジャー

五星戦隊

ダイレンジャー

忍者戦隊

カクレンジャー

メタルヒーロー

シリーズ

特捜

エクシードラフト

特捜ロボ

ジャンパーソン

ブルースワット


 さらに、両シリーズの特徴的差異は、以下のように対比される(シリーズ全体ではなく、飽くまでも僕が主に視聴した三年間についての対比である)。


 

スーパー戦隊シリーズ

メタルヒーローシリーズ

メイン戦士の人数

五人

(但し追加戦士を除く)

一~三人

(同左)

戦士の素性・平時の職業

王族・騎士・魔術師・忍者などの末裔/平時の職業は様々

警察官、特殊部隊

職業としてのヒーロー

巨大ロボ戦

あり

なし

合体技

あり

なし

 

 これを見ても分かる通り、「メタル」は設定・アクション共にリアル路線であり、対する「戦隊」は派手で華やか。また、作品全体のトーンも、「メタル」のほうがダークでシリアスな印象だった。装備や乗り物(これは「おもちゃ」として売り出されるため、極めて重要な要素である)は、「戦隊」が巨大人型ロボット重視であるのに対して、「メタル」は銃器など個人装備のディティールに凝っていたように思う。特に『ブルースワット』のプロップ・ガンは、排莢やブローバックまで再現した非常に高度なもので……本題から逸れかねないので、これ以上は措くが。

 そう、当時の僕はリアル・シリアス路線を好む生粋の「メタル派」であった。しかし、幼稚園の友だちの多くは「戦隊派」。明快なストーリーや華やかな巨大ロボの訴求力は強大だったし(僕は「敵がピンチに陥ると巨大化、ヒーロー側もそれに合わせて巨大ロボに」という流れは馬鹿々々しいと思っていたのだが)、何より五人組の「戦隊」のほうが「ごっこ遊び」に向いていた。いきおい、園庭での遊びも「戦隊ごっこ」がメインになる。

 はっきり言って戦隊ヒーローにはあまり魅力を感じることができなかった僕だが、幼稚園児には幼稚園児なりの「付き合い」があるし、やはり皆と遊びたいので、いちおう「戦隊ごっこ」にも参加した。が、もともと思い入れが浅いので、他の子たちが必ず揉めるような「○○レンジャーをやりたい」という欲がない。むしろ人気の主役レンジャーたちは進んで友だちに譲り、自分は正義の味方の前に立ちはだかる悪役を買って出るようになった。とは言えヒラの戦闘員ではく、悪の幹部や、総帥である。これが案外気持がよかった。そして僕は、「悪役」の魅力に目覚めていったのである。

 悪役の魅力、それは第一に「組織である」ということだ。五人ぽっちの戦隊には、「赤がリーダー」程度の決まりこそあれ、明確な上下関係は無い。対する悪役は「○○軍団」等の大組織であり、「総帥―幹部―ヒラの戦闘員」という絶対のヒエラルキーと上意下達の指示系統を持っている。そもそも僕が「メタルヒーロー」に惹かれたのも、主役の戦士たちが「警察」という組織の一員として「本部長の支持に従う」「警察官としての制約の下で闘う」等の手続きのリアルさに拠る点が大きい。僕は、お気に入りの「メタルヒーロー」にあって「戦隊」に無かった要素を、「戦隊の敵役」に見出したのである。

 また、僕が「悪役ごっこ」を楽しめた背景には、現実世界におけるヒエラルキー事情もあった。男子幼稚園児にとって、仲間内での地位を保障してくれる最大の要素はやはり身体能力。足が速いとか、腕っぷしが強い子が上位を独占する。では僕はどうだったかと言うと、身体能力はカラッキシであったが、周りの子に比べて要領の良さや知略やに優れたタイプで、ぎりぎり上位くらい。すると、最上位の子たちが全員「戦隊」の役に収まってしまえば、僕は「悪役」のトップに君臨することができたのだ。「正義の味方」たちに相対し、一段下がったところから「戦闘員たち(即ち、冴えないタイプの子たち)」に号令を掛ける仄暗い快感!悪の幹部がたいてい「○○将軍」「○○男爵」等の「肩書き」を持っているのも気に入っていた。

 

 こうして見ると、幼少期の僕は既に「暴力装置としての組織」への志向や「階級趣味」の萌芽を持っていたことが分かる。また、「メタルヒーローシリーズ」で目覚めたリアリティへのこだわりも順調に育んでいた。これらの傾向は、そう時を経ずして「ミリタリー趣味」への開花に発展してゆく――

 

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