本に想いを託した話(未遂)

――恩田陸『ライオンハート』と高一の僕――

 恩田陸の『ライオンハート』は、「時間もの」のラブ・ロマンスである。エドワードとエリザベスという一組の男女が様ざまな年代に転生して、繰り返し出会う。1871年のシェルブールで、1905年のパナマで、1932年のロンドンで。もっと前・もっと後の時代にも……。しかしその逢瀬は、いつも一瞬で終わってしまう。どの年代においても二人は重い宿命を背負っており、邂逅することはできても、決して結ばれることはない。しかし、まさにその一瞬こそが、二人にとって無上の喜びなのだ。

 ――いつもあなたを見つける度に、ああ、あなたに会えて良かったと思うの。会った瞬間に、世界が金色に弾けるような喜びを覚えるのよ――

 

 これの文庫版が出たのが2004年。僕は高校一年生であった。特に恩田のファンでもなかった当時の僕が、どうしてこの本を読もうと思ったか、今ではよく分からない。おそらく新刊書店の平台から、シックな表紙に惹かれて手に取った、という程度のことだと思う。ともあれ、高校一年生の僕は、このラブ・ロマンスを読んだ。そのストーリーは少年の多感さにそれなりに訴えかけ、その時も「まぁ、けっこう良かったかな」くらいの感じは受けたと思う。

 そして、そらから暫くして、僕はひとつ歳下の女子生徒に一目惚れをした。

 

 僕の通っていた学校は中高一貫校で、中学三年生以上の生徒は何らかの委員会に参加する決まりだった。彼女は図書委員で、ある特定の曜日(さすがに失念した)の放課後、図書室の入り口付近のカウンターで貸出し手続きを担当していた。利用者の生徒に本を手渡したり手渡されたりし、あるいは手元の端末に何事かを入力するとき以外は、背筋を伸ばして文庫本を読んでいた。彼女は色白で、前髪を長めに切り揃えていて、眼鏡を掛けていた。

ある日の夕方、なにか古いミステリでも冷やかすか(何故かポケミスが豊富な図書室であった)などと考えながら図書室の鉄扉を押し開けた瞬間、僕の眼は彼女に惹き寄せられた。制服のエンブレムの色で彼女がひとつ歳下の中等部生であることはすぐに知れたが、クラスメイト含め僕の周りには「じいっと本を読み耽る」ような女の子はいなかった。その身に纏った、どことなく翳のある、ちょっと孤独そうな雰囲気を、僕は好もしく思った。垂らした前髪と眼鏡のガラスを透かして見えた彼女の眼は涼しげできれいだった。

 それから僕は、「彼女の曜日」は欠かさず図書室に通うようになった。借り出す本は古い翻訳ものや詩集など、「自分が読みたい本」というより、カウンターの彼女に差し出した時に「趣味の良さをアピールできるような本」になっていった。何か気の利いた言葉を掛けるでもなく、本を手渡す際に小声で「これ」とか「お願いします」と言う以上の勇気を、僕は持たなかった。彼女が端末を操作している間、僕はぼんやりと待っているふうを装いながら、横目で彼女の顔を盗み見ていた。また、彼女がどんな本を読んでいるのか確かめようともしたが、いつも書店のクラフト紙のカバーが掛かっていて、それは能わなかった。返却期限を告げる彼女の声は思ったよりも低かったが、その落ち着いたハスキーな声も、僕は好きだった。

 

 さて、「図書室参り」も何度目かになれば、少はご利益が顕れるようになった。彼女が僕のことを「馴染み」「常連」と認識するようになり、貸出しの際には軽く微笑み、会釈を交わすようになったのである。奥手であった僕は、この小さな進展に大いに喜び、胸をときめかせた。同時に、「他の有象無象の生徒どもから区別され、彼女が僕という男子生徒を同定した今こそ、さらに奥へ踏み入る好機ではあるまいか」と考え、いよいよ己を奮い立たせようとしたのである。しかしそのせいで、僕は少々おかしくなった。これは頭でっかちで奥手な少年に特有の症状とでも言うべきもので、極めて強い情念に囚われながらも、その実現のために行動を起こす何らの勇気も持たないために、発散されない情念ばかりが膨れ上がり、ついには自家中毒を来して熱病のような症状に陥るのである。食欲が失せ、眠りも不自由になった僕は、布団に包まりながら、ぼんやりした頭でおおよそ次のようなことを考えた。

「そも、俺はどうしてあの子を慕っているのだろう。確かに、彼女の姿かたちや、声や、立ち居振る舞いを好もしいと思う。だがそれは上っ面のことで、俺は彼女の内面と言えるものを、何も知らないじゃないか。彼女が読書している格好が好きだが、どんな本を読んでいるかさえ知らない。見た目ばかり好くのは下劣な、助平なことである。だから俺は彼女の内面を知りたい。それが俺の思慕に値するものであることを確かめて、この慕情が下劣でも助平でもない、真っ当なものであることを、己に対して証明したいのだ。しかし、彼女の内面を、人となりを知るには、彼女と向き合い、言葉を交わさなければならぬ。俺はそれが恐い。最初の挨拶は、『やあ、いつもどうも』くらいで良いだろうが、それ以降の継ぎ穂となると思いも付かない。相手のほうに当意即妙を期待するのはもっと危険なことで、気まずい沈黙が訪れでもしたら、俺はニタニタ笑って誤魔化す以外のことはできそうもない。それで気持ちの悪い人だ、などと思われようものなら、もう二度と彼女の前には立てないだろう。それは嫌だ。それならばまだ、今の『微笑と会釈だけの関係』のほうがずっと良い。斯くして俺が無策かつ意気地無しなばっかりに、彼女の内面に触れる機会は一生訪れず、而して俺の慕情は下劣かつ助平に堕したまま萎んでゆくのだ。きっと彼女は、知的で、清らかで、素敵な女の子であるに違いないのに!」

 主知的・理想主義的・ロマンチックであった当時の僕は、「真の恋愛とは精神的で気高いものである」という幻想を抱いており、それに対して、所謂「一目惚れ」というのは下等で不潔なものだ、と信じていたらしい。しかし、実際自らが置かれた出発点が「一目惚れ」である以上は、行動を通して彼女の内面を探り、自らの慕情の純粋性を追認してやらなければならない。が、その行動を起こせないため、「一目惚れ」状態を脱することもまた、叶わない。ある種のアポリア(堂々巡り)に陥っていたのである。

 

 そんな僕がふと目を付けたのが、数か月前に読み終えていた『ライオンハート』であった。恋慕に悩む少年がラブ・ロマンスの小説につい惹き寄せられるというのは、ごく自然な成り行きであったかもしれない。

転生を繰り返しているエリザベスとエドワードが再会した時はいつも、「その人生」では初めて出会う筈なのに、互いに互いが「自分の相手」であることが直観される――それは、傍目にはまさに「一目惚れ」と同じなのではないか。流石に当時の僕であっても、それをそのまま敷衍して「君と僕は前世からの恋人であったのだ。僕らは出会う運命だったのさ、アモーレ!」などと本気で言えるほどの夢想家ではなかった。が、それに類するような霊的な結合、「この人こそが、現世でたった一人の私の片割れである」というような切実な直観は、あり得るのではないか。あって欲しい、と僕は思った。さらば、僕は救われる。ただ、そうは思っても、それを先方に伝えるのは、「やあ、いつもどうも」に継ぎ穂を継ぐのに百倍して難しい。とすれば、僕を焚き付けたこの『ライオンハート』を、そのテーマである、ある種の「運命的結合」を、彼女に問うてみる以外の手段は無いのではないか。この本を、彼女に贈ろう。素敵なブックカバーを掛けて。書店のクラフト紙のブックカバーでは、あなたには殺風景すぎるから。

僕はネイビーブルーの革のブックカバーを買って『ライオンハート』に掛け、見返しに「何某様 右左見より」とだけ書き付けた。準備はできた。あとは、いつもの借出し手続きの時、去り際にサッと渡そう。気の利いたセリフを添えて、等と色気を出すと、アワアワとなって却って気色悪く見えるだろうから、努めて冷静に、「これ、君に。」とだけ言ってカウンターに置き、颯爽と立ち去ろう。

 

 ――気を持たせても仕方が無いので結論から言うと、結局、僕のその計画は実行されなかった。懐にカバーを掛けた『ライオンハート』を忍ばせて図書館に行っても、やはり意気地が無く渡せなかった。そんなことを数度繰り返すうち、彼女の担当の曜日が変わってしまったのである。そしてどうも、彼女が移った曜日は、僕の剣道部の稽古がある曜日と重なっているようであった。これには絶望し、また、自分の不甲斐無さを呪った。

 当初は、稽古をすっぽかして図書室に行こうか、とか、昼休みにでも中等部校舎に行って彼女を探そうか、などと考えて悶々とした。しかし、徒に躊躇している間に彼女を見掛けない期間も永くなっていき、ついにはかつての熱情も冷めていってしまった。興味・関心の移ろいやすい少年時代のことだから、仕方のないことだったかも知れない。剣道の稽古やら弁論大会の準備やらにのめり込んでいた頃だったし、当時掛け持ちしていた文芸クラブの同級生の女の子と本の貸し借りをしたり、その短評のような手紙の交換をしたりするようになって、そちらに気持ちが向くようになった、ということもあった(ちなみに、その娘はクラブ活動や帰りの電車で一緒になることが多く、僕の内気さもあまり交際の妨げにならなかったが、やはり恋愛関係に発展することはなかった)。『ライオンハート』とブックカバーはどこかに仕舞い込まれ、数度の引っ越しを経て、ついには失くしてしまった。

 

 斯くして、僕のひとつの「一目惚れ」の始末は、ここまで紙面を消費した割には、内的な煩悶のみに終わって、外的には何らの進展も見なかった。僕は今までずっと、このことを思い出しもしなかった。先日、あの『ライオンハート』の文庫本を、古書店の百円均一のワゴンで見掛けるまでは。思わず手に取り、赤い背、黒い表紙を撫ぜた時、あの甘酸っぱい慕情とほろ苦い懊悩の記憶がフラッシュバックして、軽い眩暈を感じさえした。そして、小規模ながらも「本」で生計を立てている者として、今度はほんとうに忘れてしまう前に、書き留めておこうと思った。

 これは飽く迄も、僕の個人的・内面的な記憶で、ほんらい他人様にお見せするようなものではないと思う。こんなものを公開するのは、恥ずかしいし、決まりが悪い。しかし、敢えて拙稿から普遍性を抽出するならば、「たった今自分が抱いている表現し難い感情を、時には当人よりも饒舌に代弁してくれる本が、すでに書かれ、この世に存在しているかも知れない」、そして「そのような本ならば、充分に想いを託し得る」、ということか。まあ、実際には「託し」損ねたわけで、かの本がうまく想いを「代弁」してくれたものか、試しさえしなかったのだけれど。

 

 

 恋愛のことでなくとも良い、また、自分の気持にピタリとくる本に出遭いたい。言い難い気持ち、喉まで出掛っている思い付きが、既に書き著され、読まれるのを待っている。読んだ瞬間、頭の中のもやもやが、活字の羅列に定着し、一気に霧が晴れる。そのような体験の回数こそが、優れた読書人生のバロメーターであろう。右左見堂もまた、小店ながらも本を商うものとして、読書人諸氏に優れた読書体験をご提供できるよう、微力ながらもお手伝いして参りたい。

コメント: 0