僕は純粋原理主義者

2016.05.24

純粋原理主義派宣言

  • 我々は、原理主義的であることを原理主義的に貫く。
  • 我々はノンポリである。勿論「ポリシーを持たないこと」を原理主義的に遵守する。
  • 我々はノンポリであるが、他人の折衷的・妥協的な思想に対しそれらが原理主義的でないという点で批判する。
  • 我々は、お母さんの「A君家では〇〇してるわよ」という言説と「よそはよそ、うちはうち」という言説の並立を断固として認めない。

 

【1】純粋原理主義とは

 

 「原理主義」という言葉がある。昨今ニュースや新聞でよく目にするのは「イスラム原理主義」だが、もともとはキリスト教神学から生まれた言葉で、聖書の無謬性・イエスの絶対性を主張する保守的な立場を指す言葉であった。とまれ、大勢の現代日本人にとって「原理主義」という語は「厳格、狭量、過激」くらいの意味に認識されているようである。以上に挙げた例はいずれも宗教上の立場を表す語だが、市場原理を万能視する「市場原理主義」という言い方もあるそうだし、ちょっと頑な意見を持った人を指して「あの人は原理主義者だから」と言ったりもする。そのような拡大的な解釈を容れるなら、右翼の原理主義者は「極右」、左翼の原理主義者は「極左」とも言えるだろう。

 ところで、この「原理主義」という語は現代においてはテロリズムと結びつけて語られることが多く、日本において良いイメージを持つ人は少ないだろう。しかし一方、その純粋性・求道的性質にはある種の超俗的な魅力を感じることもできるし、「己の信ずるべきもののみを信じ、忠実に実践し、理想の実現に邁進する」という姿は人間の理想的な生き様であるようにも思われる。現代日本において、「原理主義」はあまりに不当な扱いを受けてはいないだろうか。

 このように一度「原理主義」に肩入れしてみると、それが常に「一段下」の扱いを受けてきた歴史に気付く。「〇〇教の原理主義」「××思想の原理主義」という言い方においては飽く迄も「〇〇教」「××思想」が主であり、「原理主義」は常に従である。これはまあ構造的に当たり前のことで、「原理主義」は「主義」を名乗りつつ単独では何ら主張できない。接頭辞を強調する接尾辞のようなものである。しかし、果たしてそれだけだろうか?その上に何も頂かない、無色透明で純粋無垢な「原理主義」はありえないのだろうか?我々は、自信を持って「ある」と答える。それこそが、純粋原理主義である。「原理主義」という語が構造的に何らかを頂かなくてはならないのであれば、そこに「原理主義」を置くまでである。言わば「原理主義の原理主義」である。ある種のトートーロジーに陥っているように見えるが、さにあらず。「原理主義の原理主義」とは「自分自身はどのような思想も頂かない(=ノンポリである)が、この世にあるどんな思想も原理主義的に突き詰められたものでなければ何としても承知しない(=原理主義的な)態度」のことである。だから、純粋原理主義者が本領を発揮するのは他人の思想・信条を批判する時に限られる。例えば、左派の人には「なぜ暴力革命、赤化統一を目指さないのか」と怒鳴り付け、右派の人には「なぜ君側の奸を抹殺し、天皇親政の御代を実現しようとしないのか」と煽り立てるのである。普段は昼行燈のようなノンポリ人間に急に噛み付かれた人は困惑しつつ「いや、そんな極端な」と反論しようとするだろうが、それを遮って「あなたの不徹底な思想は、怯懦と日和見に由来する破廉恥な態度の表れである。そのような中途半端な思想なら、いっそ持たない方がマシである!」と畳みかけ、勝ち誇った顔で立ち去るのである。

 

【2】純粋原理主義者 誕生の瞬間

 

 ここまで読んだ方は、「そんなものは単なる観念遊戯に過ぎない。そんな人格破綻者、存在するはずがない」と思われるだろう。さにあらず。誰しも、少年期に一度は純粋原理主義者になったことがある筈なのだ。以下に挙げる例をご覧頂きたい。

 

母「アンタもそろそろ、塾に通わせたほうがいいかもね」

子「えー、イヤだよー」

母「A君は通ってるわよ」

子「そんなの関係ないじゃんよー……」

(別の日)

子「ねー、ゲーム機買ってよー」

母「ダーメ」

子「A君は買ってもらったってー」

母「よそはよそ、うちはうち」

子「この前はA君も通ってるから、って塾に入れたじゃん!どっちかにしてよ!もう!」

 

 どこの家庭でもありそうな会話である。この例において、子供の怒りの源泉はもちろん「塾に通わさせられる・ゲーム機を買ってもらえない不満」である。しかし、最後のセリフにおける怒りの矛先は「A君家に倣う/倣わない」の不徹底に向いている。ここで注意すべきは、「塾問題」と「ゲーム機問題」は本質的に別々の問題であり、「一方ではA君家に倣い、他方ではA君家の事情は無視する」ということに何ら不整合は無い、ということである。しかしこれは、子供の眼にはしばしば「二枚舌」という重大な不正義として映る。この際、「塾」「ゲーム機」という個別・実際的な問題は無視され、親の不正義に対する観念的な怒りが子供の脳内を支配している。この「親子の信頼関係を日和見的な言説で裏切られた」という怒りこそが、純粋原理主義の萌芽である。「A君家の方針」を家庭運営上のドクトリンに見立て(実際はそんなことは全く無いのだが)、従うのか従わないのか、どちらか一方しか認めない!と駄々をこねる姿は純粋原理主義者の原風景である。因みに、「A君家ドクトリンに必ず従う=塾問題×・ゲーム機問題〇」「従わない=塾問題〇・ゲーム機問題×」という結果になり、いずれも自らが求める最適状態をもたらす訳ではないのだが、そんなコスト感覚を超えて意地になってしまうところに純粋原理主義の要点があるのかも知れない。

 

【3】純粋原理主義の本質と魅力

 

 以上に述べた通り、僕は純粋原理主義の起源は「親への叛逆」でると思っている。上の例にしても、子供は「A君家の方針を完全に真似ること」を真に達成すべき目標に据えている訳ではなく、「駄々をこねて親の支配をはね除け、体制を破壊したい」という願望が深層にある。これを敷衍するなら、長じてなお純粋原理主義者である人がいるとすれば、彼もまた筋金入りの「叛逆者」であろう。特定の何かに対する、というのではない、あらゆる「思想・信条」に対する叛逆である。彼にとって、右も左も保守も革新もタカ派もハト派もどんな宗教・道徳規範も、独善的な親と同じで、全てが嘘っぽく・押しつけがましく・鬱陶しい。この多様化・複雑化の時代、どんな思想であっても妥協的・折衷的にならざるを得ず、原理主義で押し通すことはほぼ不可能である、それを分かっていて「原理主義でなければ承知しない」と言うのは、全ての思想の存在を認めないのと同義である。アパシー(政治的無関心層)の増加が取り沙汰されるようになって久しいが、純粋原理主義は「政治忌避」に頑なになった新しいアパシーの形でありうるかもしれない。

 

 実を言えば、僕(右左見堂店主)が「右も左も見る」という意味を込めて自分の店に「右左見堂」と名付け、「戦時下の日本で出版された翼賛的な本」や「学生運動のアジテーションパンフレット」を集める理由の一部には、「純粋原理主義」的なヒネクレが介在していることを認めないわけにはいかない。もちろん、極端すぎる一派の中にも偉大な思想の一側面が含まれること、それらの資料にも壮大なドラマ・歴史的な意義があることも知っており、それが店のコンセプト・収集の原動力を支えてもいる。しかし同時に、廃れ・滅んでいった極端な思想を「トンデモ本」としてあげつらい、笑いの対象にし、「思想」の権威をオチョクッてやりたい、という後ろ暗い魂胆を多分に含んでいるのもまた事実である。正直、自分が集めている「偏った本」を貴重書として愛でる気持ちと、トンデモ本として見世物にする気持ちとの間には、ほとんど垣根が無い。それは、狂人ドン・キホーテが滑稽さとロマンを兼ね備えているからこそ愛され続けている事実に通じるものがあるのかもしれない。

 

 僕(右左見堂店主)はブッキッシュな引き篭りであり、美しい本・映画・音楽と美味しいお菓子とコーヒーさえあれば満足である。外界の煩い、他人の思想や信条は正直鬱陶しく、跳ね除けてしまいたいと思っている。だから、「あなたは真の〇〇主義者とは言えない、そんな中途半端なものには耳を貸さないよ」とケムに巻く。その意味で、僕は「消極的な純粋原理主義者」である。ただ同時に、時代のアダ花的な「右翼の侠客」や「学生運動の闘士」ら真の原理主義者たちに言い知れぬ魅力を感じ、彼等の思想の「正しさ」如何に拘わらず、その情熱やロマンに触れてみたいと思う。古い本を集め、彼らのことを「覚えていたい」と心から思う。彼らの思想が現代での処世で役に立つことは無いと知っていても、「無用の用」だからこそ無邪気に楽しめる。そんな収書に耽る時、僕は「積極的な純粋原理主義者」である、と思う。

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